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前回と同様に、富岡町、大熊町、双葉町、浪江町を訪ねてきました。

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 富岡町や大熊町、双葉町、浪江町は、いわき市の中心街から僅か直線距離40 km 程しか離れていないというのに、復興の進み具合の温度差は激しく違う。  いわき市内は帰宅困難区域に指定されている地区とその付近の住民が、多く避難先として移住しているようです。  もともと、いわき市に住んでいる人に聞いたところ、「賑やかになった。人と車が増えた。道路が渋滞するようになった。知らない人が増えた」などなど話していた。帰宅困難区域から北へは南相馬市があるが、そちらどんな状況なのだろうか。  今回は、前回と同様に、富岡町、大熊町、双葉町、浪江町を訪ねてきました。 しかし、今回も双葉町は国道6号線を通り過ぎるだけとなってしまった。国道6号線から双葉町内へ入れる道路が全てゲートでシャットアウトされているのだ。基本的に事前に許可を得た住民だけが、防護服を着用して許可証を提示しないとゲートを進入できない。 国道6号線沿いの帰還困難区域の入り口のゲート(双葉町)  帰宅困難区域内では、当たり前だが開いているお店はない。人が住んでいないのだから。避難指定地域には警察と警備の人たちは沢山いる。なんでこんなにいるんだろう。  なんでこんなにも多くパトカーが往き来しているのだろう。盗難が横行していた時期もあったそうだが、もう今となっては、盗っていくものもないだろう。   なにも立派な高級車のパトカーをバンバン走らせていなくても良さそうなもののと思ってしまう。 昨年は宮崎から来ている警察官と話ししましたが、その人たちの車はニッサン パルサーだったかな、違うかもしれないけど、フルっぽくて控えめのパトカーだった。遠くから来てこの車じゃ可哀そうだなと思った記憶がある。  消防車もぐるぐる回っていました。火事が心配です。  富岡町、大熊町、双葉町、浪江町も除染作業は昨夏に比べるとかなり急ピッチに進んでいるように見えた。それと区画整理の進み、それに伴い住宅の建設戸数もかなりな増加したと思う。避難した住民が戻ってこれるように、受け入れの住宅の着工数も相当な数だと思う。  (それにしてもここは海抜何m?しっかりとした高い防潮堤は完成していたっけかな?と思うところもありましたが。) 区画整理が進んでいます。(富岡町) ホテルも建設中

菱田雄介著「2011」を読み始めた。

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 先日から菱田雄介著「2011」を読み始めた。 表紙はご本人が2012年3月に撮影した宮城県石巻の様子だ。 その帯には以下のように表されている。   「故郷としてのチェルノブイリ、金正日政権末期の北朝鮮、革命直後のチュニジア、洪水に沈むタイ、東日本大震災と原発事故の東北、そして街角には AKB48 。日常が非日常に転化し、再び日常に取り込まれていく。写真家・テレビディレクターの「あの年」の記録 菱田雄介さんは、キヤノン「写真創世記」2008年、2010年と佳作入選しているのだから、写真家としても折り紙つきということになる。 「2011」はページ数が書いていない。コレ何ページあるんでしょう。 厚さは約 2.5cm といったところか。 まだ読み始めたばかりではあるが、写真を挿しこみながら、読みやすい文章で、訪問先の様子も頭に描きながらスイスイ読み進んでいける。 いきなり、1月1日チェルノブイリ行きから始まるのであるから、読み手のこちらも、にわかに緊張しながらページを送るのです。   チェルノブイリの次には北朝鮮行へと続いていく。  もうすぐで、東北大震災が起きてから6年が経ち、7年目に入ろうとしている。 津波で壊滅状態の大打撃を受けた地域は、海との境には今後こそ津波で街が流されないようにと高い防潮堤を築いている。工事が竣工している所もあれば、現在進行中のところもたくさんある。  だが、しかし福島の原発近くだけは例外である。進んでいないのである。取り残されているのである。 町内や住宅の敷地などの除染作業は行われてはいるものの、山林などの除染作業は行われておらず、雨が降れば放射能に汚染された土砂などが、平地に流れ込んでくるのである。もちろん大気の放射能も6 μSv/h 超の地区がいくつもある。 ここのサイトで毎日の放射線量を発表してくれている。 http://fukushima-radioactivity.jp/pc/ 大熊町 熊川海水浴場へ通じる道路  こんな状況であるから、国の人間は事故が起きた福島の原発には近づいて復興作業をしないのである。つまり国は誰にも復興の指示ができない。唯一指示できる相手は東電にだけ。それでも東電株を大量に保有しているお役人さんや企業がたくさんあるから、