菱田雄介著「2011」を読み始めた。

 先日から菱田雄介著「2011」を読み始めた。
表紙はご本人が2012年3月に撮影した宮城県石巻の様子だ。
その帯には以下のように表されている。

  「故郷としてのチェルノブイリ、金正日政権末期の北朝鮮、革命直後のチュニジア、洪水に沈むタイ、東日本大震災と原発事故の東北、そして街角にはAKB48。日常が非日常に転化し、再び日常に取り込まれていく。写真家・テレビディレクターの「あの年」の記録

菱田雄介さんは、キヤノン「写真創世記」2008年、2010年と佳作入選しているのだから、写真家としても折り紙つきということになる。
「2011」はページ数が書いていない。コレ何ページあるんでしょう。
厚さは約2.5cmといったところか。
まだ読み始めたばかりではあるが、写真を挿しこみながら、読みやすい文章で、訪問先の様子も頭に描きながらスイスイ読み進んでいける。
いきなり、1月1日チェルノブイリ行きから始まるのであるから、読み手のこちらも、にわかに緊張しながらページを送るのです。
  チェルノブイリの次には北朝鮮行へと続いていく。

 もうすぐで、東北大震災が起きてから6年が経ち、7年目に入ろうとしている。
津波で壊滅状態の大打撃を受けた地域は、海との境には今後こそ津波で街が流されないようにと高い防潮堤を築いている。工事が竣工している所もあれば、現在進行中のところもたくさんある。
 だが、しかし福島の原発近くだけは例外である。進んでいないのである。取り残されているのである。
町内や住宅の敷地などの除染作業は行われてはいるものの、山林などの除染作業は行われておらず、雨が降れば放射能に汚染された土砂などが、平地に流れ込んでくるのである。もちろん大気の放射能も6μSv/h超の地区がいくつもある。
ここのサイトで毎日の放射線量を発表してくれている。

福島 フクシマ 帰宅困難区域 原発 放射能漏れで通行止め
大熊町 熊川海水浴場へ通じる道路

 こんな状況であるから、国の人間は事故が起きた福島の原発には近づいて復興作業をしないのである。つまり国は誰にも復興の指示ができない。唯一指示できる相手は東電にだけ。それでも東電株を大量に保有しているお役人さんや企業がたくさんあるから、無理なことも言えない。悪循環の構図。

  今でも北西約30km先でも3μSv/h 超の地区もあるのが驚く。この辺りは立ち入り制限区域にはなっていないと思う。
浪江町、大熊町、双葉町などの帰宅困難区域以外でも放射能レベルは依然として高い状況。

μSv/h × 24h × 365日 = 26,280μSv =26mSv(年間浴びてしまう放射線量)
実際はこんな単純な計算ではないみたいですが。

 原発事故が発生する前が年間に被爆しても人体の健康に悪影響を及ぼさないとされていた基準が年間1mSvで事故後に20mSvに引き下げられました。
「「チェルノブイリ法」では、年間被ばく線量が0.5ミリシーベルト(土壌汚染が37kベクレル/m2)以上の地域で、医療政策を含む防護対策が行われる。1ミリシーベルト以上であれば、避難の権利があり、5ミリシーベルト以上の地域は、移住の義務がある」だそうです。

 デフレスパイラルからの脱出さえできないのに、それ以上に困難な難題ですから、出来るわけがない。放射能汚染が収束するのは何十年後の話しなのだろか、100年以上先の話しなのだろうか。双葉町や浪江町や大熊街の存在はどうなってしまうのだろうか?あのチェルノブイリのような廃墟と化してしまうのだろうか?そして原発事故の現場見学コースになり、悲惨な現場の見世物になってしまうのか?

福島 フクシマ 帰宅困難区域 原発 放射能漏れ区域の家は立ち入り禁止
大熊町の住宅は立ち入り禁止のバリケードが張り巡らされている。





そして、裏表紙側の帯には、こう記されている。

  想像は超える出来事の積み重ねで、歴史は綴られる。
日常は非日常へと転化し、非日常が新たな日常を生む。
2011年はすでに過去となり、
世界は混沌の中で不透明な未来へと流れていく。
戦後はいつか戦前と、震災後はいつか震災前と
呼ばれるようになるのかもしれない。
その大きな流れの中で、あらゆる価値観が激しく揺さぶられた。
2011年の記録を道標に、僕は世界に向き合っていきたい。

2014年3月 菱田雄介


  同時に読み進めている 堀江貴文著「99%の会社はいらない」 を読んでをブログに書こうと思っていたのに、
なぜか「2011」の話になってしまいました。(苦笑)






*私の誤認識や勘違いなどもあるかもしれませんが、ご了承ください。